これが、私の建築を志した「原点」である。
「弘法にも筆の誤り」のことわざは、空海 が 応天門 にかかる扁額を書き間違えたことからきている。
現在、京都にある平安神宮の応天門は、平安遷都1100年を記念して明治28年(1895年)に創建されたものであり、扁額の「應天門」の文字は 空海 が書いたものではない。
扁額を書いたのは、空海 の書法を究めた名筆家とされる 福岡県 大宰府 の 宮小路康文(浩潮)である。
国技である 大相撲 に19年ぶりの日本出身 横綱 の誕生となった 第72代横綱・稀勢の里 の名が、東京都江東区の 富岡八幡宮 の 横綱力士碑 に刻まれようとしている。
この 横綱力士碑 を揮毫をしたのも、大宰府 の 宮小路康文(浩潮)である。
伊藤博文 の命により、国会議事堂(帝国議会)の扁額を揮毫したのも、やはり、大宰府 の 宮小路康文(浩潮)であった。
宮小路浩潮 と同じ時代に、江戸・京橋を拠点に活躍した書家に、「山本山」などを書いた 岡本可亭 がいる。
岡本太郎 の祖父であり、北大路魯山人 の書の師匠である。
優れた書家は、江戸・東京にも、確かに存在していた。にもかかわらず、太宰府の書家・宮小路浩潮 に、京都や東京や国、全国各地の仕事が 命じられていた。
私が 宮小路浩潮 の 玄孫 であると知ったのは、結婚を機に九州に戻ることを 松田家 に報告した時のことである。
先日、祖父の50回忌の法事があった。晩年の祖父が、父達に語ったそうだ。
士族であること、宮小路浩潮 の次男(祖父の父)が養子となり、現在の 松田家 があること。
ちなみに、現在の 宮小路家 の本家は、太宰府 の地で 考古学 を専門にされているそうだ。
現代の日本の「建築」の世界は、明治以降の100年の「建築教育」の誕生と学問としての新しさと未熟さ故に、現代建築 の可能性の広がりと、同時に、市井の人々の暮らしに十分に根付いたとは言えない状況にある。
また、それ故に、日本における「建築 100年」の起こり、「東京」が建築文化の中心である。
とは言え、100年である。
「広島」の建築文化が、「北海道」の建築文化が、「横浜」の建築文化が、東京のそれを凌駕することもある。
次は「大分」である。もう少し時間はかかるかもしれないが、必ず「大分」の建築文化には、その可能性がある。
太宰府 の 宮小路浩潮 が、全国を代表する書家となるように。「日本」を表す書となるように。
故・山口隆史 先生 が「大分」を生涯の地に選んだ時代から、大分の「建築」を求め、大分 を選び、大分 に留まり、大分 に帰る 建築家たちが、現在の 大分固有の建築文化 を、創り出している。
もちろん、その素地として、磯崎新 を輩出する大分の文化水準の高さと、日本に、あるいは、現代に「建築」の純度を高め、「建築」を根付かせるために、いつの時代も、建築の世界を先導し続けてきた、建築家・磯崎新 の存在がある。
大分固有の「建築の純度」が、現代の若手建築家を「大分」に、「アートプラザ」に、引き付ける。
私もその魅力に引き寄せられた一人である。
大分の「建築の純度」を求め、現代の 若手建築家 が一人、またひとりと、大分の地を選び、大分の地に留まり、大分の地に帰ろうとしている。
大分の「建築」は 今、のちの時代に「大分派」とも称されるべき、熱量を帯び始めている。大分の「建築の純度」が、「大分」の地に、「アートプラザ」に、若手建築家 を集結させる。
大分には「建築の純度」がある。
大分には「建築」がある。
2017.4.9 松田 周作